このサイトは、芸術作品としての架空の土地の地図をメインテーマに扱ったサイトです。
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(注) この文章は筆者が昔の記憶を思い出しながら書いているので、新たに思い出したことがあれば文章中に次々追加していきます。
筆者は小学1年生の頃(あるいはそれよりも前)から、架空の地図を描くのが好きで、何度も何度も描いていたが、それらの地図は縮尺もバラバラで、それぞれに脈絡や関連性はあまりなかった。
2000年に「ころりん山」という架空の遊園地を考えてみたことは、今でも覚えている。当時、筆者は長崎在住で小学生だった。その遊園地の地図も描いた記憶があるが、その地図は遊園地とその近傍を描いただけのものである。「ころりん山」のモデルについては、はっきりとは思い出せないが、おそらく「あぐりの丘」や「山茶花高原」などではないかと思う。いずれも長崎県内に実在するテーマパークであり、小1~小3の時に行ったことがある。
ところで、「ころりん山」という名前は、たまたまスーパーボールを買ったときに、パッケージに「ころりん山のなかよし隊」と書いてあったことに由来する。筆者が描いている想像地図の原点は、この「ころりん山」にあると言っても過言ではないかもしれない。
同年7月、筆者は大阪へ転校したのだが、転校先の小学校には、みんなから「狸」と呼ばれる理科の先生がいた。
気がつくと理科室は「タヌキランド」と呼ばれるようになっており、そこからインスピレーションを得て、筆者は「タヌキランド」という架空の遊園地を想像するに至った。タヌキランドとその周辺の街のイメージを記した地図をいくつも描いた記憶がある。
2003年夏頃(この日付は、後に2003年6月29日であったことが判明)、それまで多数の架空地図を描いてきたのと同様に、「茶柱市」という架空の都市の地図を書いてみたのだ。
それまでの架空地図では、道路や線路を描くだけで地名をつけることは殆ど行わなかったが、この時は違った。全ての土地に地名をつけた。もちろん、現実にある地名ではなく完全架空の地名をつけた(結果的に現実の地名と被った架空地名はあったが、現実世界で同名地名があるのと同様に、同名の地名がここにもあるという設定を作ったにすぎない)。
なお、茶柱市はニュータウンなのに多数の地下鉄が走っているという多少現実離れした設定であり、飽くまでも地下鉄が主役だった。このときは地下鉄のある街のイメージの描写を目的としており、この街を舞台とする小説を執筆することも予定していた。
また、このときは茶柱市は「関東地方のどこかにあるという設定」だった。
当初は茶柱市中心部だけを描いていたのだが、次第に「地図を描くこと」が目的になっていき、小説を執筆するという構想は忘れ去られてしまった。
地図の描画範囲は次々に広がり、「狐狸電鉄」も登場した。これの由来は、例の理科の先生だけでなく、2002年10月に「平成狸合戦ぽんぽこ」が放送されたことにも由来する。
そして、想像地図とタヌキランドが邂逅する。想像地図の中に、タヌキランドという架空遊園地を登場させたのだ。もちろん、2000年に作ったタヌキランド
をそのまま想像地図の中に埋め込んだのではなく、茶柱市郊外の遊園地の名称を「タヌキランド」とした、ということである。
タヌキランドのすぐ近くに、「平原」という駅がある。この駅名は、おそらく「平原綾香」に由来する。確かにこの辺りを想像した時期は、2003年12月頃だ。
その後、描画範囲は東に広がり、2004年、想像地図の描画範囲は、泉川市に到達した。初めて描画範囲が海に到達したのだ。だが、まだ「県」は意識していなかった。
2006年3月には、描画範囲は菅野に到達した。描いている地域が、茶柱県という架空の県であるという設定が固まってきていた。描画範囲は南へと広がり、2007年3月には、ついに描画範囲が茶柱県を出て、南隣の片山県に入った。10月には西隣の森崎県へも入った。
この頃になると「関東のどこかにある」という設定から「日本のどこかにある」というやや曖昧な設定になっていた。
2008年8月30日、片山県の東側の海峡を越えた三桝県に、11月3日には茶柱県の北隣、江島県に入った。この頃、想像地図の世界は「パラレルワールドにあるもう1つの日本」的な設定となっていた。
片山県と三桝県の間の海峡にかかる三桝海峡大橋が橋全体の長さが5kmもあるにも関わらず、両端が高架橋になっていて吊橋部分の長さが3km程度しかないと設定されたのは、もし吊橋としての長さを5kmとしてしまうと、架空世界においては日本最長の橋の順位を明石海峡大橋ではなく三桝海峡大橋が占めることとなってしまい、現実と架空の間の矛盾が表面化するため、それを避けたかったからである。
その後も描画範囲は南へ南へと広がり、2009年2月13日には、片山県の南隣、岩本県へ、5月28日には平岩県へ、11月17日には奥井県へ入った。そして、2010年1月3日には森藤県へ入った。1月11日には吉岡県へ、3月15日には真木県へ、8月25日には生方府と福本県へ入った。
2010年初頭の段階で、想像地図の描画範囲は南北500km以上に広がっており、もはや「日本のどこか」という設定は無理があり、架空の国とした方が現実的であると感じるようになってきた。そこで、2010年4月7日、想像地図世界は「架空の惑星にある架空の国である」という設定が決定した。
また、2010年12月14日、「想像地図の世界は、『想像宇宙』というパラレルワールドの『天の沢銀河系』にある『泉星』という星にあり、城栄国は泉星にある国の1つである」という設定が正式に決定した。また、「茶柱市はニュータウンなのに多数の地下鉄が走っている」という状況は、「茶柱県が計画的に開発された『副首都』だからである」という後付けの合理的屁理屈による説明設定が追加された。
かくして、城栄国の設定は強固なものとなり、日本という既存地域の特性に極端に縛られると言うことはなくなった。城栄国の大雑把な形状も、大部分はこのときに決まった(修正は後に何度も行われているが7割方はこのときに決まった)。
架空惑星の架空国なら、どんなに長い橋があっても、地球の橋の長さランキングを塗り替えてしまうことはない。城栄国に地球人が行けないという「当たり前の事実」さえも、「泉星が地球から見えないほど遠いから」という「理屈づけによる説明」ができる。とにかく、「架空の星の架空の国」という設定は、あらゆる矛盾を一掃することとなった。
また、このとき長期的な目標として「2043年までに6万1千枚の地図を描き、想像地図を完成させる」という目標が立てられた(注:2013年初頭に完成目標年は「2040年」に前倒しされ、さらに2015年には「2028年」に前倒しされた)。
長期的目標が定まった中、大阪府をモデルにした土地「生方府」の描画が本格化。描画の中心は茶柱県から生方府へ移った。描画のペースはそれまでの倍以上に加速した。ともすれば「自分は想像地図を描くために生まれてきたのかもしれない」とさえ思いながら。東日本大震災発生時も地図を描いていた。3月28日には生方府の南隣の住谷県、4月6日には西隣の椎山県へ入った。そして7月30日には生方府の全域の描画が完了し、同時に寺島県へ入った。8月6日には古瀬県へ入った。
こうして、もうすっかり茶柱県中心の描画体制から、生方府中心に移行しており、また、去る6月5日には城栄国の首都名が「南栄」に決定しており、「想像地図・茶柱」という名前は地図の内容に即したものではなくなってきた。それゆえ、2011年8月15日、この想像地図の名称は「想像地図・茶柱」から「想像地図・城栄」に改名し、同時にサイト名も「想像地図研究所」に改めた。「想像地図研究所」の名目上の設立日はこの日である。
そして11月30日、新山県に入った。新山県新山市は、首都・南栄都と第二の都市・生方市を結ぶ国道1号から、古都・栄都市へ向かう国道8号が分岐する地点である。ここからは、描画の中心は生方府から新山県へと移り、国道1号に沿う首都方面(南)と国道8号に沿う栄都方面(西)の交互描画となった。
1月18日、新山県の南隣の熊崎県へ突入。3月31日、新山県の西隣の栄都府へ突入。その後は、愛知県をモデルにした「熊崎県」(県都・日下部市)・京都府をモデルにした「栄都府」(栄都市)の交互描画が続いた。栄都府栄都市の描画に一区切りがつくと他の場所の描画も行った。6月16日には、ごく一部ながら岡地県に突入した。
そしてこの頃、想像地図世界で話されている言語についての真剣な検討が始まった。城栄国の言語は、地名が漢字で書かれることからも分かるように、日本語によく似た言語である。城栄国と海を挟んで境界を接する「森国」は中国のような国だが、ここの言語は中国語によく似た言語である。しかし、森国とは反対側の多島海の先で接する国は、実在地域にそれに相当するものがなく、架空言語自体をゼロから作り上げることとなった。
ところで、茶柱県や片山県など、初期に描かれた部位の地図の稚拙さが気になるようになってきたのもこの頃である。「『架空の星の架空の国』であったとしても、茶柱県のこの路線網はあまりに非現実的で荒唐無稽すぎる……」
そこで、様々な検討の結果、茶柱県・片山県内の一部領域については、完全描き直しの対象となった。とはいえ、描き直しは十年以上後に行う予定とされた(ただし、先行描き直し領域なるものが指定され、2012年12月から一部地域での描き直しが開始されている)。
一方、描き直しの傍ら、新たな地域の描画も続けられ、9月12日、描画領域が弓木県へ突入。弓木県への突入は2011年内の予定であったが、栄都や日下部など南部の描画が優先された結果、9ヶ月も遅れることになった。
直後、台湾に行く機会があった。もちろんその期間中は想像地図の描画は停止していたが、今後の描画にとって重要なものを得ただろう。また、「『日本に似ているが日本ではない』ということから感じる微妙な違和感」は、台湾という現実の場所にも、想像地図という架空の場所にも共通するものなのではないかと感じた。そして、台湾のような地域を想像地図にも描いてみるのが良いだろうという結論になった。
直後の9月23日、熊崎県の南隣の国重県に突入した。12月16日、国重県の南隣の糸川県に突入した。糸川県には沢田市(横浜のような街)があり、この街は丘陵上にある。街全体が丘陵にある大都市を描くのは初の試みであり、今までにない大変さが伴ってきた。
3月始めに、青春18切符で九州へ旅行した。未踏の熊本への到達というのが目的だったが、1日目で大急ぎで九州に到達するのではなく、1日目は山口県岩国市に宿泊した。2日目から九州北部・中部を回ることとなるが、未踏の熊本への到達のみならず、同時にかつて住んだことのある北九州・佐賀・長崎への再訪も叶えられた。13年ぶりに九州を訪れたので、街の変貌には驚かざるを得ず、脳内記憶の世界との食い違い
を感じた。それはまさしく、「似ているけど違う」想像地図の世界との共通点を感じざるを得ない。そして、いち早く九州のような地域を想像地図世界にも描きたくなったことは言うまでもない。
九州から帰宅した直後の3月13日、想像地図の図葉総枚数がついに1万枚の大台を突破した。その翌日の3月14日、海峡を越えた先の徳沢県に突入した。想像地図では、長大海底トンネルの描画は初の試みであった。
そして3月26日、満島県へ突入。山梨県のような土地である。8月20日、ついに首都の南栄都のうち、市部に突入した。東京と同じかそれ以上の規模を持った架空都市の地図を描く試みはおそらく世界初。大変な困難が、作者を襲うこととなった。
ところで、城栄国は、中北部に生方(大阪のような街)と一柳(神戸のような街)があり、中部に栄都(京都のような街)と日下部(名古屋のような街)がある。沢田(横浜のような街)と南栄(首都、つまり東京のような街)は南部にあって、そこを通過して進路を東に変えた先に係州地方(中国地方のような地域)や八州(九州のような地域)がある(係州・八州は日本の中国・九州と東西逆になっている点に注意)。つまり、九州のような地域を描きたければ、南栄を先に描かないといけない。そこで思いついたのは、南栄を迂回して、東京湾アクアラインのような場所(南栄湾うらしま海道)を通って、九州のような地域へとペンを進めていく方法である(下図)。
同時に、想像地図が惑星の丸みをどう処理するかについて、定量的な扱いをする必要がでてきた。そこで、修正型正弦曲線図法という、筆者独自の地図図法を開発するに至ったのである。しかし、数値計算の方法が確立されておらず、CADソフトに精密な図を描いて実測することで数値を算出していた。
9月16日、東京湾アクアラインのような道路「南栄湾うらしま海道」に沿って描き、対岸の早津県へ突入した。南栄湾うらしま海道は、東京湾アクアラインのように、首都に面した湾(南栄湾)の入江の部分の対岸同士を結ぶ道路ではあるが、道路は多くの島を介して通っている。つまり、しまなみ海道にも似ている。10月21日、早津県の南隣の口広県へ、11月3日には山瀬県へ突入した。そして、中国地方のような地域(係州地方)の南海岸を東へ進み、九州のような地域へと描画を進めていくという方針になった。
11月14日、興味深いことがあった。見知らぬサービスエリアを舞台とする夢を見た。その夢は、今まで生きてきた中で見た夢の中でもっとも鮮明でリアルな夢であった。せっかくこんな夢を見たのだから、想像地図に生かしたいと思った。そこで、その夢を生かした土地をどこに作るかが問題となった。夢で見た地形を組み込んでも違和感がなく、描き進めている末端から比較的近く、さらに「サービスエリアは50km間隔で設置される」という決まりを満たす場所として、案が2つ上がった。1つ目の案は滝本県の滝本自動車道。2つ目の案は口広県の森陽自
動車道。地形を詳細に検討した結果、滝本県の滝本自動車道のSA付近の地図を描くときに夢を生かすことに決まった。SAの名称は「梢重SA」に決まった。
夢の中に出てきた地名に忠実に従って名付けた。なお、この夢には瀧本美織のような人が出てきたが、県名の「滝本県」は先に決まっていたのでこの夢をきっかけに決まったわけではない。そうして夢を生かす場所が決まったが、地図というのはその部分だけを描けば良いのではない。滝本県は椎山県の西にある。その時点では椎山県中部までしか描画が進んでいなかったため、口広県の描画を後回しにした上で椎山県から西方向への描画が急ピッチで進められた。12月18日、滝本県へ突入。12月24日、ようやく夢を生かした梢重SA付近の地図の描画ができた。
ちなみに、夢を生かす場所の2つ目の案として上がった口広県の森陽自動車道のSAは、何かと「滝本」という名称に縁があるのではないかと思い、「智中滝本SA」と名付けられた。「智中」は口広県の旧国名である。
栄都府や椎山県の描画も進めながら、口広県の描画が続いた。2013年3月に九州へ青春18きっぷで旅行したときに見た山陽本線の風景の記憶が大いに役立った。2月16日、口広県の東隣の古野県へ突入した。古野県に入って最初に通るのは住岡市である。いうまでもなく住岡市は岩国市に相当する都市であり、九州旅行の1日目ではまだ九州に入らずに岩国市に宿泊したときに見てきた風景を参考にして描画を行った。このまま東へと描画を進めていき、八州への到達を目指した(城栄では、九州に相当する「八州」は、中国地方に相とする「係州」の東にある。また、八州と係州の間に1県分の島があり、そこが安武県である)。7月13日、係州と八州の間の安武県に突入。また、八州とは反対方向、係州西部の描画も進み、8月8日には穂谷県へ突入した。
この時期、「第五期構想」というものが持ち上がった。城栄国の言語についての設定は、「城栄国で話される言語『城栄語』は、文字・単語・文法・発音のいずれも、日本語に非常に酷似している。その酷似度は驚異的であり、日本語の文章は大概の場合は城栄語の文章として通じるし、逆もまた然り。」となっている。しかし、真面目に考えれば、架空惑星の架空国、つまり異世界である限り、日本語と同じ言語が通じるのはご都合主義的ではないか?
そこで、第4期に次ぐ第5期では、城栄国で話される言語自体も作ることが構想された。これが第五期構想である。
第五期構想の実現のためには、漢字に相当する表意文字とひらがな・カタカナに相当する表音文字を全てゼロから創作する必要がある。すなわち、中国語(漢文)に相当する架空言語を作り、続いて日本語に相当する架空言語を作る必要がある。この構想に基づき、8月より、中国語に相当する架空言語の創作が開始された。この架空言語は10月に千織語と命名された。そして、将来創作する予定の、日本語に相当する架空言語は更紗語と命名された。
架空言語の創作が活発化しても、2014年の描画速度はそれまでにない速度であった。年間描画枚数は4610枚であった。
2011年に設定された「2040年までに6万1千枚の地図を描き、想像地図を完成させる」という目標を達成するためには年間2000枚描く必要がある。しかし、2012年以降に描画速度は向上し、2014年は1年間で4600枚以上の地図を描くことができた。そこで2015年、「倍速描画構想」を決定した。これにより想像地図の完成目標年は2040年から2028年に変更された。
2月24日に八州北西の城戸県に突入しいよいよ八州の描画が本格化した。
6月10日、それまで概念だけが扱われ定量的な扱いが難しかった修正型正弦曲線図法の数値計算の取り扱い方法が確立し、CADソフトで実測することなく計算のみで数値の算出が可能となった。また、CADよりも精密な数値の算出が可能となり、想像地図に経線を引くことができるようになった。
また、6月~8月は特に「千織語」の創作が活発化した。しかし、作者は「同時並行で何かを行う」ということが不得意であることを忘れていた。地図と千織語の両方の創作を同時に続けていることで、作者の心身に多大な負担がかかっていることに自分で気づけなかった。千織語は中国語に相当する架空言語なので、背景世界観は日本的ではなく古代中国的な世界観である。千織語の製作は「作者自身が千織世界観に支配されること」をいかに防ぐかという格闘であった。そんな中で8月23日、疲れからか、不幸にも、架空地図や言語に関する価値観の対立から架空言語「凪霧」作者のA氏と衝突してしまう。このとき、作者は初めて「作者自身が千織世界観に支配されてしまっていた事実」に気付いた。このような結果になってしまった反省から、千織語の創作を停止し、第五期構想の無期限中断を決めた。
そして、再び想像地図の描画に集中することにし、首都圏の描画を本格化させた。首都圏の描画は、区域を区切って行うことになり、まずは幹線鉄道沿線の描画を「第1期作業」として優先的に行うこととなり、11月3日に第1期作業が完了した。
こののち、首都圏の描画は一時休止となり、年末まで他の地域の描画が行われた。2015年の年間描画枚数は5380枚で、史上初めて5000枚を超えた。
首都圏描画の第1期作業で描かれたの幹線鉄道のすぐ西側に接する地域の描画が「第2期作業」として着手された。この作業は特に3月~5月にかけて重点的に行われ、6月3日に南栄描画第2期作業が完了した。その後、描画は進み、7月2日には山手線にあたる環状路線である谷原線の内側地域の描画が完了し、また10月16日には港湾部の描画が完了し、南栄の南東部の地図が公開されるに至った。
首都圏の描画は非常に大変な作業であり、また筆者が首都圏を実際に訪れた回数がまだ少ないという理由もあり、南栄の北西部・北東部・南西部に関しては一部を除いて描画は先送りにされた。
一方で、11月以降は高見県(長野県に相当する地域)や赤松県(新潟県に相当する地域)の描画が急速に進められた。「たけべ市」など特徴的な地域の描画が行われ、架空世界版の「下山ダッシュ」である「長丈ダッシュ」が行われる場所が設定された。
2016年の年間描画枚数は5476枚で、過去最高を記録した。
2016年に引き続き、高見県・赤松県の描画が続けられていた。そのような中で、1月16日にYouTubeのチャンネルが停止される事件が発生し、公開していた駅名替え歌動画が閲覧不能となり、駅名替え歌部門からの撤退が検討される状況となった。しかし、そのような状況でも継続を強く望む声があり、結果的にはニコニコ動画のみでの継続が決定した。その後、それまで筆者1人のみだった想像地図研究所のメンバーが2人になり、駅名替え歌の音源作成という部門で活躍することとなり、結果的に駅名替え歌の創作はそれまでよりも活発化した。
勿論、想像地図の描画も進められ、首都圏を中心に描画が進められた。5月20日に完成率が50%を突破した。10月29日には南栄の北東部の地図が公開されるに至った。しかしながら、首都圏は地物の密度が他の地域に比べて高いため、1枚当たりにかかる描画時間が長くなる。言い換えれば描画速度の低下を意味する。首都圏の描画を集中的に行ったことによって、描画速度は大きく落ち込んだ。2017年の年間描画枚数は4344枚で、2010年から7年連続で加速を続けていた描画速度が減速に転じる事態となってしまった。このことは非常に強い衝撃として受け入れられることとなった。
一方で、YouTubeのチャンネルは11月初旬に復活し、駅名替え歌部門は本格的に復活することになった。
2018年も南栄の描画が続けられ、2月10日に南栄の北西部の地図が公開された。並行して、首都圏西部の千明県・野波県の描画も本格的に行われた。志村川市など藤服本線の沿線の描画が精力的に行われた。2月25日、藤服本線沿線の全地域の描画が完了し、里程の測定が行われた。
3月中旬、想像地図研究所の本拠地を移転する作業が行われた。結果、描画速度は大きく落ち込むことになったが、それ以降は以前の速度を徐々に取り戻しつつ、再び南栄の描画が進められた。そして5月26日、ついに南栄の南西部の地図が公開され、2015年9月に始まった南栄都心部の描画は約3年の時を経て遂に完成した。
6月18日の大阪北部地震のときは、出勤途中だったため乗っていた電車が止まってしまった。しかし、幸か不幸か、地震は駅で停車中に発生したので車内に閉じ込められることはなかった。それでも家まで10km以上の道を2時間以上かけて歩いて帰ることになった。それでも、地図の描画に対しての大きな影響はなく、地震発生後も描画ペースが落ち込むことはなかった。
夏には東北方面へ旅行した。この経験を生かして、直州地方の描画の準備が進められた。しかし8月29日、疲れからか不幸にも謎の背部痛で救急搬送され、そのまま1週間に亘り入院生活を送ることになってしまった。むろん、その間は地図の描画が停止し、描画速度を大きく低下させることとなった。しかし、9月5日に退院してからは怒濤の勢いで地図の描画が進められ、南栄の描画に引き続く形で首都圏の描画が行われた。入院期間中の地図の描画の遅れは9月中旬までに取り戻すことができた。
12月は、念願だった伊勢神宮への参拝を果たした。寺島県西部は伊勢神宮周辺をモデルとすることが決まっており、この地域の描画は伊勢神宮の参拝後に行うこととしていたが、参拝の翌日には着手し、1日で完了した。これによって寺島県の描画が完了した。翌週には、埼玉県で定例的に開かれている架空鉄道会議への参加も達成した。同席した駅名替え歌作者の双叶
舞さんが想像地図研究所の3人目のメンバーとなることが決まり、12月は実りの多い月となった。
2018年の年間描画枚数は4452枚であった。前年に比べるとやや回復したが、最盛期の2016年の5476枚には遠く及ばない数字であった。
2018年に引き続き、首都圏の描画が継続され、2月27日に千明県の描画が完了した。首都圏の西側にある西南地方の描画も本格的に進められ、直州地方の描き直し作業も進んだ。
3月にはラオスへ旅行する機会があり、7年ぶりの海外であった。4月29日は「平成最後の昭和の日」で、この日に「平成最後の昭和の日に、大正駅で明治のR-1を飲むオフ会」を企画したところ9人ほどのメンバーが集まった。またその直後には6年ぶりとなる九州への旅行を行い、長崎県・大分県への再訪と未訪問だった鹿児島県・宮崎県への訪問を果たした。これに伴って、47都道府県で未訪問なのは福島県と青森県だけとなった。この成果により、想像地図の描画も九州に相当する地域である八州地方の描画が大きく進むこととなった。
5月26日には関西コミティアで「赤松県道路地図帳」「早津県道路地図帳」「南栄都大判地図」を販売。前者二つについては完売するという成果を出した。関西コミティアでは悠里メンバーとの邂逅もあり、相互に連携することが期待できることとなった。
6月29日には、2015年以来開催されていなかった架空地図学会を京都府内で開催。名前を「架空言語・架空地図学会」とすることで架空言語メンバーの参加も促した。なお、この集まりは日程がG20大阪サミットと被ったため、「C20架空世界サミット」と称されることとなった。
ところが7月6日、衝撃的な出来事が発生する。なんと、買い物に行く途中の道路で、疲れからか不幸にも側溝に転落して左腕を骨折してしまう。全治4週間の怪我となったが、それでも地図の描画は強行された。8月3日に予定されていた山口への旅行までにはギプスが外れたため予定通り決行となったが、左腕の違和感が残る状態であった。山口への旅行は、想像地図研究所の4番目のメンバーとしてぶちょーおるたさんが入会するにあたっての顔合わせを兼ねたものであった。同氏の入会に伴い、2015年8月以来停止していた千織語製作計画は正式に再開されることが決まった。
その後は、完成率が7割を超えたこともあって、6万1千枚という目標描画枚数が適正なのか調査が行われた。その結果、その枚数では城栄全土を網羅するには不足であるという結論に至り、目標枚数は65536枚に引き上げられた。
一方、直州地方の描き直し作業は、若干の迷走もあったが、原則的には2007年以前に描いた部分は完全に描き直す方針となり、作業が開始された。描き直し作業と並行して、直江県の描画や斎賀県・塚由県・舟山県の描画も行われ、斎賀県は足早に県内全域の描画が完了した。10月にはラジオ出演の機会もあったが、作業は予定よりも順調に進み、2019年の年間描画枚数は7604枚で、2016年の記録を上回って過去最高を記録した。
2019年に続く形で直江県の描画が行われ2月には完了した。並行して舟山県の描画が進められている。
最終的には2028年完成を目指している。